WW2 United Nations|軍事板常見問題&良レス回収機構 c
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◆◆連合国側勢力 <◆総記 <欧州方面・目次 <第2次世界大戦
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To Be or Not to Be 1/13 (1983)
「ニコニコ動画」:ポーランドのワルシャワ蜂起再現ヒストリカルイベント
●書籍
『FUBAR: Soldier Slang of World War 2』
イギリスに旅行に行ったついでにボービントン戦車博物館で本を色々購入. 第2次大戦時のスラング辞典で,英本国・連邦諸国軍と米軍(陸軍・海兵隊)とドイツ軍のものが載っている. 洋書や洋画をみる時はもちろん,翻訳書のよくわからん翻訳を理解するにも役立ちそう.――――――軍事板,2010/03/29(月)
『職業軍の建設を!』(シャルル・ド・ゴール著,不知火書房,1997.5)
なんだか文学的表現,歴史的な引用が多く,疲れる. まあ,実際言ってる事は具体的で,今でも通用する部分も多く悪くないが・・・ 当然凄まじいフランス視点なので万能でもないし. 『剣の刃』(葦書房,1993.4)は読んでないけど,本書 よりも精神論的なんだと? 想像するだけでつらいね.――――――軍事板,2010/06/09(水) 青文字:加筆改修部分
『第2次世界大戦』1(チャーチル著,河出文庫,2001.7)
チャーチル視点だから当然だけど,イギリスの政界動向がよく書かれていた. アメリカで車を左から降りたら,轢かれて重傷とかちょっとワラタ. できることなら,『世界の危機』のほうから読みたかった. 洋書のほう頑張ってみるかな.
――――――軍事板,2011/01/14(金)
『ノルウェーと第二次世界大戦 双書・北欧2』(J.Andenæs, O. Riste & M.Skodvin著,東海大学出版会,2003.5)
クヴィスリングが総統に繋ぎをつけるために,海軍頼ったお陰で,歴史ものにはほとんど出てこないレーダーやら,カールス(海軍追ん出された後,郡長として空襲で死亡)やらがちょこちょこ出てきて来る上,英陸軍の遠征軍の絡みで,簡単に英郷土防衛軍にも触れてあって,俺得だった.――――――軍事板,2011/06/
『ヨーロッパ/ポーランド/ロシア 1918〜21』(阪東宏著,彩流社,2008.10)
第一次大戦の結果生まれた東欧諸国のうち,ポーランドに焦点を当てたもので,特にソ連との関係について重きを置いて書いている. 日本では余り触れられていないソ連・ポーランド戦争なんかも取り上げていて,結構面白い.――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】 第一次世界大戦後,英仏はドイツにどのように対応しようとしたのか?
【回答】 以下に箇条書きしてみる.
A.フランスはドイツが再び台頭できないという軍事的保証を求めていた.
B.フランスはイギリスに安全保障を求め,ドイツが復興した場合の軍事的準備を望んだが「侵略者を事前に想定するのは集団的安全保障に反する」「フランスはドイツより強い」という観点からイギリスは抵抗した.
C.そのイギリスはドイツ人を「ヨーロッパ協調」に戻すべきである,という視点から宥和政策を考えていた.
D.フランスはそうしたイギリスの議論に動かされることなく,ポーランド・ユーゴスラビア・チェコスロバキア・ルーマニアとの小協商と同盟を結んだ.(これは,バランスオブパワーの点からしても誤りであった)
E.フランスは,ドイツの賠償支払いが遅れると,軍� �を派遣して,支払いがなされるまで工業地帯であるルール地方を占拠した.(そのため,ドイツは途方もないインフレに悩まされることになった)
Eは間違いなくヒトラーの台頭に貢献しただろうと思う.
ますたーあじあ in mixi
【質問】 連合国側のアルミニウム確保状況は?
【回答】 一時は在庫が10日分を切る有様だったが,主としてオーストラリアの鉱山のものに頼った. 戦争という非常事態の下,製造原価を度外視してアルミナ収率85%という回収効率の良い生産方法がとられたという. 一方アフリカでは大戦勃発により,探査事業が中断している.
***
1937年,米国内務省が"Geological Survey Bulletin 878"を発行しました. この報告書は,1878年に設置したLaboratory of the United States Department of the Interior(地質調査所)が,1879年から地質調査を開始し,1880〜1914年の間に2,789カ所の調査,1915〜1936年の間に1,533カ所の調査を実施した結果の概略報告書です. この調査は州毎に実施され,鉱石の分析報告は凡そ,基本物質5種類,硫化物19種類,テルル化合物1種類,塩化物と弗化物8種類,酸化物19種類,炭酸化合物9種類,硅酸化物62種類,チタンの硅酸塩1種類,コロンビウム4種類,硼酸塩類7種類,窒素塩2種類,燐酸塩9種類,バナジウム塩類8種類,砒素塩1種類,硫酸塩21種類,モリブデン塩類その他7種類の合計183種類の岩石と鉱物の見本分析が表示され,米国の地表構造を為す鉱産物と品位が判る様になっています.
ボーキサイトの場合,アーカンサス州にAl2O336〜53%,SiO27〜38%のもの,ミシシッピ州にAl2O315〜59.6%,SiO22.75〜47%� ��ミズーリ州にAl2O331〜76%,SiO23.8〜40%などが報告されています. ボーキサイトに関しては,米国には混合鉱を含む多種類の賦存が報告されていますが,巨大鉱床の報告はありません. しかし,例え少数の鉱物の存在を明らかにする為でも,あの広い米国全土を股に掛けて鉱産物を調べる姿勢は凄まじいものがあります. これは国家の持つ資源と資産としてだけではなく,将来の産業開発や国民の経済活動に必要な基本情報とも言うべきものです.
日本でも,こうした活動は太平洋戦争中に泥縄式で行った訳ですが,今では殆ど顧みられることはありません. 何しろ,輸入した方が安いですから. でも,本来は安全保障の為にも,こうした情報はきちんと蓄積すべきではないでしょうか. そう言えば� �気象衛星にしても,気象庁で運用費が賄えないので維持がピンチになっているようですが,数億程度,何処かの天下り法人を潰してしまえば捻出出来るのではないでしょうかねぇ. 気象だって,十分な安全保障政策の一つなのですから,こうした所にお金を掛けないでどうしますか.
さて,本題に戻って,アルミニウム地金がアルミナを電解して商業的製品として生産され始める19世紀に,バイヤー法によるボーキサイトからのアルミナ製造技術が確立します. こうして,欧州でBauxiteの確保が始まりますが,このBauxiteとは,フランスはアルル地方近郊のLes Baux村で発見されたシリカと鉄分の比較的低い粘土に付けられた名前で,最初は窯業に用いられていました. 因みに,電解法が見つかるまでのアルミニウム地金は,塩化アルミニウムとナトリウムにより生産されており,この原料は明礬石だったりします.
この電解に用いる電力は水力が主です. まぁ,「電気の缶詰」と異称のあるものですから,電気を目一杯用います. ですから,火力発電で電解を行っていた会社は,安い欧州産(欧州では水力発電が主流)に勝てず,米国やカナダのアルミ精錬産業は,程なくナイアガラの滝にある電力会社の水力発電の電力を用いる事になります. また,当初アルミナは米国での精錬業でも,欧州からの輸入でしたが,これも19世紀末にジョージア州とアラバマ州にボー� ��サイト鉱山を確保し,そこから原料を確保する様になりました.
ボーキサイト鉱物は,Gibbshite(三水和物),Boehmite(一水和物),Diasporeが自然界に存在し,更に特殊な条件で,Bayerite,Nord Strandite,Tohditeが存在します. Diasporeは一般に,アルミナ分が高く鉄分が極めて低く,焼成して耐火物や研削剤の原料として利用されますが,バイヤー法ではアルミナの抽出に膨大なエネルギーが必要です.
また,産出状態と母岩の種類では,terra rossa型とlaterite型に分けられます. 前者の母岩は石灰岩もしくはドロマイトでBoaehmiteが主体であり,結晶水は10%程度,後者の母岩は火成岩,変成岩類で,Gibbshite主体であり,結晶水は30%程度とされています. しかし,この分類は極めて好い加減なもので,単独鉱床は少なく,混合型であり,母岩での分類も正確とは言いがたいものがあります.
欧州産のボーキサイトはBoaehmiteが主力だったり,Diasporeの混合鉱だったりして,実際に輸入してアルミナ抽出作業をしてみなければ判らなかったりします.
20世紀に入って,アルミニウム需要が急速に拡大すると,大量で均一なボーキサイトが必要となりました.
更に製造原価を下げるには,精錬メーカーは最も効果的なアルミナ分含有の高いボーキサイトを望みま� ��た. Boehmiteの場合は,アルミナ理論値が85%なのですが,これはアルミナ抽出に高温高圧が必要で,シリカの種類によっては苛性ソーダ損失に大きな異動があり,所与の条件を更に複雑にしました. 次いで注目されたのが,Gibbshiteで理論値は65.4%と低いのですが,高アルミナ低シリカ,しかも低リアクティブシリカで,尚かつ赤泥の発生量を少なくする為に,鉄分が出来るだけ低いことが要件となりました. 其の上,輸送費用を逓減する為に,鉱山は海に近く,かつパナマックス,カナールサイズの大型船が停泊出来るのに十分な推進のある港が建設出来,ボーキサイトを現地でアルミナ加工出来る十分な鉱量があり,採掘費が充分安価であることが条件として加わり,更に,発展途上国(ジャマイカ,ギニア,ガーナなど� ��での様に,政情不安が起こらないこと….
こうして考えていくと,此の条件に合うボーキサイト鉱山は,豪州しかありません. 豪州では,Gibbshite鉱で低リアクティブシリカではありますが,低アルミナ高シリカの西豪州産ボーキサイトの生産革命が起きました. 最初は,採掘し輸送したボーキサイトのアルミナ分は,相手がどんな鉱石であれ,アルミナ分を出来るだけ抽出するプロセスを準備する,または,抽出する最高の条件で工場を操業する様にしていましたが,技術者達は発想の転換を行い,低温低圧の条件下で最も容易かつ最も低原価で抽出するアルミナ分を設定し,抽出しきれないアルミナは全部廃棄する方式を採ったのです.
元々,この生産方法は,1942年末にUボートの通商破壊戦により,南米産の 船舶輸送によるボーキサイト供給が不安定になった際に,シリカ含有の高いアーカンサス州産ボーキサイトを利用する為に行った方法でした. 当時はアルミナ収率が70%だった工程に,更に赤泥中のアルミナとソーダを回収する工程を加えることで,アルミナ収率を85%に引き上げることが出来ています. 但し此の方法では,設備費用が非常に大きくなり,戦争という非常事態で製造原価を度外視して初めて実現し得た方法でした.
西豪州でこの方式が利用出来たのは,鉱石の輸送距離が短かったのと,未使用のボーキサイトを安全に貯鉱し,採掘前の元の状態に戻す作業を完璧に行う土地に恵まれたこと,苛性ソーダと熱エネルギー消費が低くて済んだこと,それにアルミナ工場を極大化しても,地金生産業者が多数あり� �そちらに生産品を引き渡すことが出来たからだったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/06 21:50
太平洋戦争も末期になった,1944年,豪州では,Australian Aluminium Production Committee(AAPC)と言う組織が発足しました. 元々,1936年に航空工業自主独立計画として,Commonwealth社を設立して,Wirraway練習機を手始めに,Boomerang戦闘機の量産,第2次大戦に突入してからは英国からの軍用機供給が途切れた為,航空機生産省が国内の工場を総動員して,3つの鉄道工場で最終組立をさせたBeufort爆撃機と,Beaufighter戦闘機,1927年に創立したDe Havillandのオーストラリア支社が1942年からMosquito爆撃機を生産するなど,軍用機の生産が盛んになりました.
ところが,参戦当初は国内のアルミニウム圧延工場向けの地金が不足し,米国からの割当も未着で,国産地金を待望していました. 幸い,その初期の苦境はカナダから緊急援助2万トンの地金供給により凌ぐことが出来ましたが,一時は在庫が10日分を切る有様で,産業界の声に押され,遅れ馳せながら豪州政府も重い腰を上げ,1942年に4名の調査団が米国とカナダに送られてボーキサイトから地金生産までの資料収集を行い,更にそのうち2名は危険を押して,英国に渡り,スコットランドのLochaber,Kinlochleven,ウェールズのSwansea,イングランドのCheshireの各製錬所を訪問しました.
1943年,その調査団報告が提出さ れ,アルミニウム製錬一貫工場を建設する費用として,年産2万トンのアルミナ工場建設費として75万豪州ポンド,年産1万トンの製錬工場に150万豪州ポンドを見積もりました. この工場は,水力資源が豊富なタスマニア州に設置されることとなり,連邦政府とタスマニア州政府は共同で1万トンの地金工場,2万トンのアルミナ工場を建設することに合意して,300万ポンドの予算を計上,実施機関としてAAPCを設立しました. このAAPCにより,国内各地でボーキサイトの調査が行われます. 実際の調査は,Department of National Development内の局であるBureau of Mineral Resources, Geology and Geophysicsが調査を担当しました. また,英国本土のアルミニウム会社であるBritish Aluminium Co,Ltd.(BA)が豪州アルミニウム国産化に協力し,北部直轄領と当時は委任統治領だったパプアニューギニアでのボーキサイト探鉱の為,The New Guinea Resources Prospecting Co,Ltd.を豪州政府と共同出資で設立し,利用しました.
こうした調査の結果,1949年暮れに沿岸哨戒艇艇長が,Aruhem LandのTraunt島とWessel群島からボーキサイト鉱の見本を持ち込みました. 1951年10月にWessel群島の詳細な調査を行い,Marchinbar島に有望なボーキサイト鉱を確認し,本土北部直轄領(後のGove)にもボーキサイトが発見出来ました. AAPCは1952年5月に,Marchinbar島の詳細調査を開始し,更にMelville湾にボーキサイトを確認しています.
Marchinbar島のボーキサイトは900万トンの可採量があり,タスマニア計画には充分であるとして,それ以上の調査を行いませんでした. Melville湾の方は,港と東側海岸にあるYirrkalaの伝道教会の間の15kmの中間地点に,戦時中緊急避難用に設けた滑走路の直下からボーキサイトが発見され,BAが試掘権を申請しました. 試掘権申請面積は50平方マイル,地表に近い部分は豆状ボーキサイトでアルミ ナ分は50%,鉱量約650万トン,下部のセメント状部分のボーキサイトはアルミナ50%で鉱量は1,300万トンが確認されました. 但しシリカ3%ですが,鉄分が19.5〜20.0%と高いのが難点だったりします.
この為,第1鉱区の試掘権はBAからCZCとBAの合弁会社であるコマルコに移管されましたが,コマルコの解消に伴いBAに移り,其の儘失権してしまいます. その外周に第2〜第4鉱区がありましたが,1961年7月,民族資本のDuvalに18ヶ月の期限で探鉱が許可されますが,これも失効,その後はペシネーの子会社Gove Bauxite Co,Ltd.に1963年2月に許可されたものの,開発計画が連邦政府の条件を満たさないのでこれも失権しました.
以後,この鉱区は公開入札に掛けられ,アルスイスの豪州法人AustraswissとGove Alminium Ltd(GAL)との合弁会社Nabalcoが開発許可を得ました. 当初予定はボーキサイト採掘年500万トン,アルミナ生産年100万トンの計画でしたが,アルミナ工場の着工が1年遅れました. この会社の採掘は現在も続いており,ボーキサイト生産は1985年に510万トンに達し,1998年には650万トンに及んでいます. アルミナ工場も順次稼働し,年110万トンから開始され,現在では年175万トンとなっています. この鉱区の残存確定埋蔵量は1.6億トンであり,アルミナ生産は2001年に200万トンに達しています.
因みに,日本もこの鉱区には興味を示していました. 1962年に後に大興金属と言う会社の社長となる市川直雄氏がこの地を訪れています. この人は,日本鋳鋼所から日本曹達にスカウトされて二本木工場でアルミニ ウム製錬の研究に勤しみ,1937年にアルミニウム一貫製錬に成功したり,戦況悪化でボーキサイト輸入が途絶した時には,礬土頁岩によるアルミナ生産の為に一度人造ボーキサイトを製造し,バイヤー法に適する処理をしてアルミナを生産する手法を編み出すなど,一貫してアルミ畑を歩んだ技術者でした.
彼は,将来アルミニウムは,日本軽金属,住友軽金属,昭和電工の3社では賄いきれないと考え,八幡製鉄でのアルミニウム製錬を考えていました. この時のアルミニウム製錬計画では,Goveのボーキサイトを輸入してアルミナを生産し,地金は第1期年産25,000トン,第2期年産25,000トン,合計で5万トンのアルミ地金の製錬工場を鶴崎か四日市に建設しようというものでした.
結局,この計画は業界の反対に遭い,通産 省から許可を得ることが出来なかったと言います. 八幡アルミニウムの発想は,Lateriteからアルミナを製造し,並行して鉄原にも利用しようと言うものでしたが,後に膨大な競争力のある鉄鉱石が豪州から輸出される様になると鉄原として利用する必要は無くなります. そう言った意味では,この八幡製鉄のアルミニウム業界進出はポシャって正解だったかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/08 22:36
西アフリカには,15世紀半ば以降,スペイン,ポルトガル,フランス,英国,米国などが奴隷貿易や象牙の採取などで進出しており,革命やナポレオン戦争などにより,フランスの進出は一進一退を繰り返しました. 1849年,フランスは西アフリカに於ける橋頭堡としてボケ地区を保護領とし,ちょっとずつ領域を増やして,1893年,仏領西アフリカの一部として仏領ギニアを成立させることに成功しました.
この仏領ギニアには,19世紀の王立工業学校の調査により,アルミナ分の高い鉱石があることが既に報告されていましたが,1917年にアルコアの鉱山技師が本社に報告書を出すまで,全く顧慮されていませんでした. アルコアは,この鉱山技師に更なる調査を依頼しましたが,彼は契約を履行しないままに終わり� ��す.
1920年,英領ギニアにあるボーキサイト鉱山への技術者派遣が可能になったので,米国人5名と2名のフランス人からなるアルコアの調査団がコナクリに派遣される事になりました. ところが,一歩先に米国人が以前アルコアの技師が探鉱した地域の探鉱権を申請していました. その地区は,海岸沿いのロス諸島と内陸部のボケ地区でした. 一方,アルコアの調査団は1鉱区直径3.5kmの探鉱権を20鉱区で申請し,2年間の探鉱が認められました. この探鉱権は,アルコア本体ではなく,そのフランス法人の名前で申請しています.
1923年,2年間の探鉱権が切れるので,再度,その延長を申請し,今度は20鉱区中15鉱区の探鉱権を20年に渡って取得することに成功しました. また,一歩先に探鉱権を申請 していた米国人が全く探鉱をしていなかったので,1924年にはロス諸島の開発権をも手に入れることに成功しました. この探鉱権による探鉱は殆ど行われず,1923〜27年に掛けて,幹部が毎年乾期になるとギニアに滞在して,新たに97鉱区の探鉱権を申請していました. この頃の改訂鉱業法では,20年という長期の探鉱権は認められず,申請当初から3年間有効とし,延長は各2年を2回,つまり通算7年間の探鉱が可能で,8年目には開発権に切り替える必要がありました. この開発権は50年間有効で更に50年間の延長が可能でしたが,期間中に実際の鉱山活動を実施することが定められていました.
1932年にその8年目がやってきたのですが,大恐慌があったり,集中排除法により米国資本のアルコアは,アルキャンなどに分� �し,事業の再編成をしていた時期だったので開発権に切り替える余力が無く,ギニアの植民地政府と交渉して7年間の探鉱権延長を認めさせることに成功します.
その前の1930年に前の割り込んで入った米国人からカッサとタマラ両島の開発権を10万ドルで買収することに成功していましたが,権利関係の移転に手間取り,実際に全権が手に入ったのが1933年1月の事でした.
1935年,仏領ギニアでは新鉱業法が施行されます. この法規では,鉱区を取得すると鉱業活動が自然と要求され,投資が行われ,鉱区の維持には資金投下が義務づけられる事になりました.
1937年になると再編成に落ち着きが出てきて,資金的な余裕も出来た為,アルキャン(アルコアからこの権利を譲渡された)はロス諸島の探鉱を積極的に� �施し,ボケ地区への投資も開始します. この見本が本国に送られ,分析された結果,1938年からタマラ島の2カ所で採掘が開始され,船積み用の岸壁がフランス業者の手で建築されることになりました. この採掘は,植民地政府の要望により,タマラ島の囚人を雇用することを義務づけられますが,船積み用岸壁が暴風雨で破壊され,囚人達は植民地防衛用施設の建設に徴用された為,再建の見通しが立たなくなりました.
1939年9月,第2次大戦が勃発し,ギニアのフランス民間人は本国に呼び返されました. 一時,此処の鉱山技師も本国帰国を余儀なくされましたが,一部はタマラ島の6,000トンに及ぶボーキサイトの処理の為に戻りました. ところが1940年6月,本国がドイツに降伏してしまい,本国とギニアとの 通信が途絶し,送金も全く行われなくなり,技術者達は八方塞がりの状態に陥ります. 仏領西アフリカの政府は,連合国に協力してボーキサイトを北米に送ろうとしましたが,船積み岸壁が破壊されている状態ではその実行は困難でした.
こうして4年の月日が流れていきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/09 22:26
【質問】 大戦中,日本やドイツは工場の熟練工を徴兵したため兵器の生産に支障がでましたが,ソビエトやイギリスなどではそのような事は無かったのでしょうか?
【回答】 人口に対する兵役人員の割合から,第2次世界大戦におけるソ連とアメリカ,イギリスは軍需生産,および市民生活に支障が出るギリギリの線まで動員を行っており,特にソ連では場合によっては深刻な状態に陥ったようです. イギリスは動員した本国兵士が比較的少数であったため,これを補うために大量の植民地兵を投入していました. それでも熟練を要しない単純労働では労働力が不足し,各国で,女性の登用が盛んに行われたようです.
つまり,動員力ぎりぎりまで兵を投入した連合国に対抗するため,枢軸側は動員力を越えて兵を集めざるを得なかった,ということになるかと思います.
【質問】 第2次大戦中,我が国では学徒出陣や勤労動員が実施されましたが,米国や英国の国内情勢はどうだったのでしょうか?
【回答】 日本と同じです. 但し,学徒出陣については,強制ではなく,志願に拠っていました. 米軍の将校では,大学を休学して,志願したケースが多かったみたいです. 米国の場合は,1940年9月に選抜徴兵法が制定され,軍事的には総動員体制が確立しています.
一方,生産現場では,国防諮問委員会(NDAC),生産管理本部(OPM)が既にあり,1941年12月に戦時生産局(WPB)がこれに加わります.
本格的な総動員体制が確立したのは,1942年4月の大統領命令によって,戦時人的委員会(WMC)が設立されてからで,連邦保障局のポール・マクナット元Indiana州知事を長とし,その下に陸軍省,海軍省,農務省,労働省,WPB,行政委員会,選抜徴兵制度代表者などがメンバーになっていました.
し� ��し,最初はこの委員会にはさほどの権限が与えられず,特に選抜徴兵制度との軋轢があって上手く回りませんでした. そこで,10月に大統領令で,選抜徴兵制度を膝下に組み込むことになりますが,軍の人的要求とのジレンマによって1943年末に再びこれを分離することとなります. この委員会の活動は,軍との人的要求の調整(徴兵の対象とならない人々の生産設備への配分)が主な作業となりました. 但し,これは,WMCの地方支部が,合衆国雇用サービス(USES)との共同作業で,地域経済と地場産業の実情に見合う形で配分を行っています.
更にWMCでは,1942〜43年にかけて,全国44カ所で地域雇用安定計画を導入して,軍需産業の急速な拡大で,労働力の不足が深刻化している地域での雇用対策をUSESと共に行っ ています. 労働者の就業ですが,まずは大恐慌時に職を失った人への再雇用を実施し,次いで,メイド,店員などサービス業への就業を制限して,危急産業へ重点的に割り振っています.
但し,日本とは違って,国家が全てを仕切るのではなく,各企業も独自に求人活動を展開していることが特徴です. 例えば,女性の就業者数は,1940年3月の1073万人から1942年1月には1176万人へ,12月に1472万人,1943年12月で1611万人,1944年7月に1644万人となっており,女性比率は,1940年に全労働力の26%だったのが,1944年7月には37%に上昇しています. また,英国についても,同様に総動員体制が確立しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】 1935年の仏ソ相互援助条約について質問です. 1・これは相互不可侵以外にも軍事的な面を含んでいるんでしょうか? 2・ドイツのフランス侵攻時にソ連がフランスを支援した形跡が無いのですが,1940年までにはこの条約は破棄されていたのでしょうか?
【回答】 当然,軍事協力を行っています.
例えば,エンジンについては,MikulinがGnome-RhoneK.14 Mistral Major空冷星形エンジンを1930年代初頭に輸入して,M-85エンジンを制作していますし,同じく,1934年にHispano-Suiza 12YをLicence生産した後,Klimovの手に因って改造され,LaGG-3やPe-2のエンジンに使用されています. また,後者に搭載されていたHispanoの20mm機関砲は,ソ連の手によって改造され,ShVAK機関砲となって大量生産されました. 戦車の技術などでも協力していましたし(ただ,実質はItalyの方が大きかった),ソ連の戦艦を稼働させるための部品を供給(旧ロシア帝国の戦艦は,白軍崩壊後,ビゼルタで解体されていた)しています.
逆に,ソ連からは原材料の供給を得ていたりする訳です.